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ポスティング

 営業の基本。一部外部に委託することもあるが、年に3、4回ほど、基本は自分で配る。自転車に乗って散歩がてら、これがいい気分転換になる。最初は孤独な作業でこりゃあ大変だと思ったが、なんだかんだでここまで続けられている。嫌いではない、むしろ好きなんだと思う。そのチラシを見て問い合わせがあったときは「ああ、よかった」と心の底から嬉しさがこみ上げてくる。そういったこれまでの幾多の出会いに感謝しかない。

HYBRIDができるまで②

イメージ
 平成20年5月、初めて自分で作ったチラシが新聞に折り込まれた。その日は朝早くから事務所に来て、電話が鳴るのを今か今かと待っていたが、これがうんともすんとも・・・この電話機壊れてないか?と取扱説明書を熟読したりもした、笑い話しのような本当の話し。はっと振り返って教室を見渡すとこの頃は机や椅子も揃い、だいぶ「塾っぽく」なっていた。しかしこのチラシ、久しぶりに見てみると勢いだけは負けないぞとばかり随分と肩に力が入っている内容。「お前、気合入りまくって大丈夫か?」と当時の自分に突っ込みたくもなる・・・これが若さってやつかなとつくづく思う。 それから数日、初めて体験に来てくれたのは長男が小学校の頃に所属していた野球チームの仲間たち2人。本当に嬉しかった。この子たちの出会いからHYBRIDは始まったといってもいい。

成績アップの一例①

 Aさん ①入会時期 小学校5年生 12月 ②定期テスト 中学校1年生 1学期期末テスト 5教科302点 ↓ 中学校2年生 1学期期末テスト 5教科423点 1年間で5教科119点アップ ③進学先 香椎高校 入会当初は問題に慣れるまでに時間がかかる傾向があったが、コツコツ頑張る姿勢は誰にも負けないものがあった。香椎高校合格の際は本人・私ともに大喜びであった。

目指すもの

 集団でもない、個別でもない、新しいスタイルを目指して自塾は始まった。しかし、参考にする塾はほとんどなかった。当時、その指導法の大先輩とも言うべき方を紹介され、そちらへ赴き、色々と話を伺ったものだった。その方がよくおっしゃってあったことが次の話だ。 人間は忘れる動物、特に教えられたことは簡単に忘れる。しかし、自分の持てる力をもって理解、学び取ったことはそうやすやすと忘れることはない、と。 これだと思った。できるだけ能動的に学習を進めて、その結果として成績が上がる。このような塾をつくろうと。成績がグングン伸びている子はこちらがあれこれ指示を出すまでもなく、放っておいても勝手に勉強してくれる。例外なく。逆に手取り足取りの指導が必要な子は分かりやすく教えてもらえたという満足感はあるのであろうが結果は・・・。ここまで多くの指導経験を通して辿り着いた境地だった。 教えてくれる先生がいなければ、勉強を進めることができない。こんな環境に慣れきった人間が、果たしてこの国の将来を背負っていくことが出来るのであろうか?勉強とはそれ自身が目的ではなく、自分の志や夢を実現するための手段にしかすぎない。自分の足で立ち、自分のことばで夢を語ることができる。そんな子どもたちを世の中へ一人でも多く送り出していきたいのだ。

なぜHYBRIDをはじめたのか

我が家の家族構成は自分と家内と27歳の長男、23歳の長女の4人。HYBRIDはこの二人の子どもたち(当時は中2と小5だったかな?)のためにつくった。わざわざこの激戦区で、しかも一人で。勿論、他の生徒さん達に対しても彼ら同様、いやそれ以上にここまで接してきた。今も昔も。ここは誤解なきよう、念のため言っておく。 そこまで色んな塾を見て来た。が、自分の子を預けるならA塾?B塾?など考えたとき、どれもピンとこない。じゃあ自分でつくるか、というものだった。 自分は当時39歳。そう野心がある訳ではなかったと思う。お金が欲しくてとか、社長になりたくてといった俗っぽい動機で始めたわけではない。 話しを戻そう。自分は独立前、同業4社を渡り歩いた。考えてみると結構な数だ。履歴書なるものを思い返すのは正直恥ずかしい。なぜか?その4つのうち3つはもうなくなってしまったから。会社存亡の憂き目を3回も見るとは思わなかった。なかなか厳しい業界である。 そこで見て来たもの。よかったこと、そうでなかったこと。それを踏まえ自分一人で、小規模なら、いいものが実現できるのではないかと考えた。 こんな環境でこの子達を学ばせたい・・・そんな想いからHYBRIDを始めた。

HYBRIDができるまで①

 2008年、今から14年前。独立することを決意、勤めていた塾の社長にその旨を伝えた。当時教室を任され4年目、全てが順調だったが、「今しかない」との想いで跳び出した。教室最後の日、生徒たちはもちろん、中にはお父さん、お母さんまで塾に来ていただいたところもあり、「あっち(香椎)に行っても頑張って」と激励されたときは流石にホロっときた。が、それと同時に「やるしかない」という気持ちが大きくなった。腹が据わるとはこういうことかと思った。 次の日、契約を済ませた教室に来た。名前はHYBRIDとした。集団とか個別とか既存の形式にとらわれず、いいものを組み合わせ、新しいカタチをつくりたいとの想いから。まずはとりあえず掃除をしたのかな?昨日まで沢山の生徒に囲まれていた自分。しかしこの教室にはまだ誰もいない。たった1日でこのギャップはさすがに堪えた。窓を開けると向かいの塾にはたくさんの生徒が出入りしている。その光景を見せつけられ「この先おれは大丈夫なんだろうか?」と自問自答したことを今でもよく覚えている。 また色んな人から「香椎?そんな激戦区でやらなくても」とよく言われたものだった(今も言われる)。事実、当時この近辺にあった個人塾は今はほとんど存在していない。塾銀座とも呼ばれるここ香椎。我ながらよくここまでやってきたなと近頃思うところがあり、このブログで文字にして残すことを決めた。 なぜわざわざ自分で塾を始めたのか、また、この塾をこれからどのようにしていきたいかを中心に書いていければと思う。